生きる知恵

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長文を読めない人が増えている現代

 さて、みんなは一定の長い文章を苦もなく自然に読めるだろうか。今日の記事は、人間の生活における基本である読解力の話である。気軽にさくっと読める内容だ。

 世間には、本、仕事の書類、ネットの記事など、それなりにボリュームのある文章はいくつかの種類がある。専門職や研究職などであれば、専門書籍や文献、論文なども身近な存在だが、専門職でない人も、そういった専門的な長文も触れる機会も時々あるだろう。

 現代はツイッター(現X)などのSNSが広く普及しており、コミュニケーションの質は以前と比べて大きく変化している。そんな中、あなたはこんな風に感じたことはないだろうか。

「長い文章を読めない人が増えたなあ・・・」

「言葉の理解力の低い人が増えたなあ・・・」

 幅広い視点で物事を捉えることができて、多様な人と接することが多い人なら、特にこのように感じる機会が多いと思う。現代の、特に若い世代の人達の読解力が低下していることは、かなり多くの有識者が指摘していることもよく知られる所だ。

 そこで、具体例を二つ紹介しよう。(ソースは失念してしまったので記載できないのはご了承いただきたい)

 一つは、恋愛やマッチングアプリに関するとある掲示板の書き込みである。

 内容は、30代の男性が30代の女性とやり取りしていた時の一部である。何回かのやり取りで、お互い会いましょうという段階で、男性は以下のようなメッセージを送った。

「それは〇〇ですね。良いと思います。それでは場所と日時ですが、〇〇から〇〇辺りは会いやすいですか?難しければ他の場所でも大丈夫です。日時は、僕は〇日と〇日が空いていますが、いかがですか?」

 ごく一般的な内容で、大人なら簡単に理解できる内容だが、このメッセージに対して女性から、以下のような驚く内容の返信が来たとのこと。

「長すぎる文章苦手です」

 読者のみんなはどう思うだろうか。上記メッセージは、長すぎて返信できないような難しい内容だろうか?確かに、マッチングアプリのメッセージや、LINEやメールなどのコミュニケーションツールも含めて、返信しやすい分量とリズムというものはある。しかし、それは人それぞれ感覚も異なるものだ。男性が送ったメッセージは、決して非常識なほど長すぎて難解なわけではない。むしろ、30代にもなるいい大人でこの内容を「長すぎて苦手」と感じるのなら、日常生活に支障が出る位の読解力不足ともいえるのではないか。

 もう一つエピソードを紹介しよう。

 これはQ&Aサイトのとある投稿の返信に寄せられたコメントの一つである。どの程度の長さの言葉で相手に物事を伝えるのが適切かという話の流れの中で、以下のコメントが寄せられた。

「今の時代は、短文が中心なんですよ。Youtubeもショート動画がメインになりつつありますしね」

 このコメントは、まるで大多数の現代人がこのような価値観だというような述べ方をしていたのだが、しかし現実は違う。Youtube、ツイッターやフェイスブックなどのSNSもそうだが、それらは世間を形成しているコミュニケーションツールの一つに過ぎない。社会のコミュニケーションが、全て短文で済むということはあり得ない話なのだ。ある程度の長文を理解できないのは、社会で生きる上でマイナスにしかならない。商品の説明が理解できない、大事なニュースの内容が理解できない、行政からの支援制度の通知書類の内容が理解できないなど、こうなったら誰でも困ることになる。

 文章の理解力が低下している原因としては、ネットやSNSの影響、読書の少なさや、学生時代からの学習環境や勉強法など、様々なものが挙げられている。そこで今日は、言葉、文章を理解する上で大切な核心的なことを一つ挙げておこう。

 それは、短絡的な決めつけをしないことだ。

「これは、こうだ」「これは、こうに決まってる」「こいつはどうせ〇〇な奴だ」

 こういうものが、短絡的な決めつけだ。はっきり言うと、世の中の理解力や思考力が足りない人はこういう短絡的な決めつけをする傾向がある。特に内容の薄いネットやSNSの短文に慣れ過ぎてしまうと、言葉、文章の全体像を掴んで深く理解する力は衰えてしまう。

 特に現代に広まっているSNSは、感情的な思いつきをマシンガンのように撃ち続けられる武器なのだ。あなたが何も意識せずにこの現代を生きているなら、このマシンガンを撃てば撃つほど短絡的思考に陥っていく。それは、物事の本質を掴めないまま、周囲の人を大切にして幸せな生活を築くことを放棄することと同意義だ。

 短絡的思考に陥らないためには、まずは幅広い種類の言葉、文章に常に触れることが必要である。(もちろん、これ以外の要素も多分にある)

 文章でも、人の言葉でも、人の行動でも、今見える表面だけが全てではない。

(作・イキルちえ)

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<この記事は、2024年8月29日に加筆しています>