さて、みんなは自分の大切な家族や友人などを殺した犯人が、世間で英雄のように扱われていたら、どのような気持ちがするだろうか。自分の感情を弄び、犯罪行為で財産を奪った犯人が、世間で英雄のように扱われていたら、どのような気持ちがするだろうか。今日は2024年10月のニュースから、“倫理観”に大きく関わる出来事を取り上げる。
(注:この記事は2024年10月25日執筆(公開10月27日)のため、この時点での情報を元に作成されていることをご了承いただきたい)
2024年10月23日、詐欺ほう助等の罪で渡邊真衣被告が逮捕された事件(通称・頂き女子りりちゃん事件)を題材にした映画を製作することが発表された。これについて、世間では批判や疑問の意見が広がり始めている。以下三つのリンクは関連情報である。
<参照元:“頂き女子りりちゃん”題材の映画制作決定 獄中の本人とも対話・当事者達の視点で描く(モデルプレス)>
<参照元:モデルプレスの2024年10月23日のツイッター(現X)投稿記事>
続いて、各方面の確実な情報の元、いくつかの状況を整理する。
①渡邊被告には、立花奈央子(写真家)という支援者が付いており、渡邊被告の身元引受人でもある。
②渡邊被告は、被害者に一言も謝罪をしていない。
③渡邊被告は被害者から届く手紙には一切返信していない。しかし、支援者からの手紙には返信している。さらに手記を獄中で書き記して支援者に渡しており、ネット上で公開されている。
④渡邊被告の手記及びこれから公開予定の映画等で発生した収益は、被害者への弁済に充てることを支援者が明言している。
⑤現在公開されている渡邊被告の手記公開について、被害者が「やめてほしい」と支援者に直接訴えているが、支援者はこれを無視して公開を続けている。
⑥渡邊被告は、2024年9月30日の判決前に「泣く準備をしている」という発言をしており、これはニュースでも報道された。(この状況下での『泣く準備』という発言は、客観的に考えて、犯罪を行ったという自覚のなさ、「かわいそうな自分」という被害者意識などが明確といえる)
⑦渡邊被告は、2024年9月30日に懲役8年6ヶ月及び罰金800万円の判決が言い渡されたが、同年10月15日に上告している。(上告するということは、被告当人の立場に立った場合、「判決に納得できないから」という理由が基本になる)
⑧この事件の映画化は、渡邊被告の逮捕前から計画されていた。
⑨この事件の映画は、本編はまだ作成されておらず、予告編のみ作成と公開されている。そして、映画の製作費は、クラウドファンディングで募集することが発表された。(制作会社は、支援者の立花奈央子代表取締役の株式会社オパルス)
これらを踏まえて、『オレ達人間が生きていく上で、何を大切にしていくべきか』という視点を元に考察していこう。
上記に挙げた情報、事実は、読者のみんなも目にしたことも多数あるだろう。これを目にして、あなたは“違和感”を感じるだろうか。なんともいえない違和感を感じたなら、おそらくあなたの感性は正常に倫理観を伴ってはたらいている。こういう違和感は、生きていく上で非常に大切だ。
人間の中には、やってはならない行為(犯罪)を犯す者はいる。
そこで、何をまず原則にしなければならないか?
(1)被害者が救われること
(2)加害者は罪を償うこと
この二点である。
しかし、この事件以外でも過去に例があるが、原則から外れて歪んだ状況を生み出してしまうことがある。それは、
(1)加害者がかわいそう
(2)加害は仕方ない
こういうものが歪んだ状況であり、渡邊被告のこの事件は、この歪んだ状況がかなり強く表出している。
それでは、歪んだ状況ではなく、どういう視座に立って考えるのが、被害者が救われて加害者が罪を償う原則倫理に当てはまるだろうか。
『あなたのやったことは、これが悪い。まずは被害者に謝罪し、どう罪を償うかを考え、賠償を実行しましょう』
『被害者の救済方法を考え、救済を実行しましょう。そして、今後同じような事件が起こらないよう対策をしましょう』
この二点を中心に考え、実行していくことである。
これは、検察官や弁護士や事件当事者など、そういう特別な人だけがやることではない。人間が生きている間に、些細な場面でも、誰でも遭遇することである。例えばあなたが、友人から預かった大切なコップを割ってしまったらどうする?“人の心”を持つ人であればわかるはずだ。
どんな事件でも、加害者に事情というものはある。しかし、それは絶対に免罪符にはならない。被害者側に立った救済、考察が第一である。それが第一だからこそ、社会が成立する。この渡邊被告の事件については、被害者側に立った救済、考察があまりにも置き去りにされているのである。下手をすれば、加害者の渡邊被告を悲劇のヒロインや社会的弱者かのように仕立て上げる風潮もあり、これははっきりいって異常なことである。
その理由として、“恋愛感情を利用してお金を騙し取った”という、一歩間違えると嘲笑の的になりかねない点が被害の契機になっていることや、渡邊被告が若い女性で被害者が中年の男性という構図が、現状の女尊男卑社会に当てはまっているという点も看過できないだろう。
事件の映画化についてであるが、最初に述べたように、公開が実現した場合の収益は、被害者への弁済に充てられることが支援者から述べられている。これで弁済に繋がるのであれば結果的に被害者救済に繋がるので、悪いと言い切れない面もあるだろう。そして実際、過去に起こった犯罪事件が映画化された事例もいくつか存在する。
<参照元:【衝撃】実話を基にした邦画の傑作4選!実際に起きた事件を映画化…観た?(motaiku)>
ただし、映画公開後に以下の二点のような状況が起こったら、それはさらなる“倫理の崩壊”である。
(1)映画の収益が、被害者の弁済に充てられず、渡邊被告等の収入として充てられた場合。
(2)映画の内容、結末が「りりちゃんにも事情があった。りりちゃんはかわいそう。りりちゃんも被害者。社会の悪い面がりりちゃんを生み出してしまった」という“加害側”の視点のみに終始し、被害者への償いと被害者側の視点に立った考察が無い場合。
さらに、映画製作費を「クラウドファンディングで募集する」という点について。
これは、「本当に信念と力のある人は、何かをやろうとする時にどう行動するか」という視点で考えれば明確にわかることがある。そのような力のある人は、自分の生活の質を落としてでも自己資金を投じ、人に頭を下げ、人並み以上の努力をして入念に準備をするだろう。世の中には、そういう人がたくさんいて、社会を支えている。クラウドファンディングとは、はっきり言えば「他人のお金をアテにしている」ことである。
まとめに向けて、あと一つおまけを追加しておこう。
アメリカには「サムの息子法」という法律がある。簡単に言うと、犯罪加害者が、その犯罪に関する著作物(書籍、映画など)から利益を得ることを防ぐための法律だ。(発生した利益は、被害者やその家族が受け取ることができるようになる場合が基本)この渡邊被告の事件の性質から、特にサムの息子法のような法律は必要だと考えられるが、日本にはこれに類似する法律はない。以下、それについて詳しく解説しているWEBサイトである。
<参照元:犯罪加害者と表現の自由:サムの息子法(監獄文化研究.net)>
冒頭で述べたことを、最後にもう一度記してこの記事を終える。
『自分の大切な家族や友人などを殺した犯人が、世間で英雄のように扱われていたら、どのような気持ちがするだろうか?』
『自分の感情を弄び、犯罪行為で財産を奪った犯人が、世間で英雄のように扱われていたら、どのような気持ちがするだろうか?』
どうすれば良いのかという答えは、社会の中にちゃんと存在し、真摯に生きている人達は手にしっかり持っている。
(作・イキルちえ)
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